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名経営者の知恵に学ぶ~松下幸之助編~

掲載日:2021年12月1日事業戦略

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現パナソニックの創業者である松下幸之助は、「経営の神様」という異名を持ち、一代で大企業を築きました。多くのビジネスマンが、松下幸之助の言葉に学んだことでしょう。
本稿では、彼のエピソードをひも解き、経営者・リーダーに必要な資質をお伝えします。
ぜひ、参考にしてみてください。

伝説となった「涙の熱海会談」から得るべきこと

右肩上がりで業績が伸びているときは、その勢いが、今後もずっと続くと錯覚しがちです。そのため、業績に悪影響を及ぼしかねない市場環境の変化や、経営指標のわずかな悪化に気づけなかったり、気づいていても意識的に見ないようにする、といった心理が働いたりします。
それは、うまくいっているやり方を変えるには勇気がいるため、ついつい目をそむけたくなるからでしょう。

しかし、企業のかじ取りを担う経営者は、会社にいる誰よりも、そういった変化に敏感でなくてはなりません。そして、業績悪化の兆しをわずかでも感じ取ったのならば、その事実に真摯に向き合い、対策を講じるべきなのです。
そのことを実践したのが松下幸之助であり、実践の端緒となったのが、いわゆる「熱海会談」でした。

この会議が開かれたのは、1964年の7月、静岡県の熱海ニューフジヤホテルです。ここに松下電器の役員、事業部長、営業所長と、販売会社・代理店の会長や社長といった責任者が、一堂に会しました。
目的は、顧客と接する現場のトップから、偽りのないマーケット状況や経営実態を話してもらい、早急に対策を講じるためです。

1964年は東京オリンピックが初めて開催され、世の中は浮かれ模様。その反面、景気はというと、あまり芳しくありませんでした。高度経済成長の反動から、不況に突入していたためです。家電製品の商況も例外ではなく、“三種の神器”といわれる白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機の販売数は落ちていました。
それにもかかわらず、メーカーは減産することなく、売れ行きが好調だった頃の生産量を維持していたのです。

そんな中、松下幸之助ただ一人が危機感を抱き、事業報告から減収減益の兆しを感じ取ったといいます。幹部社員たちは誰も、この危うさに気づくことができませんでした。報告の裏にあるわずかな変化や、松下幸之助独自の経営指標と直近業績などの比較によって、見出した予測だったのかもしれません。

この懸念は間違いなかったことが、熱海会談で明らかになります。大半の販売会社・代理店が、赤字に苦しんでいました。このとき松下幸之助は、彼らの努力が足りていないために、このような事態に陥ってしまったのではないかと、まず考えました。170名ほど出席していた責任者のうち、毎日の売上を認識している人が、20~30名ほどしかいなかったからです。

そこで、「自主責任経営」の意識を持つべきだと、松下幸之助は語りました。日々の販売実績や利益をしっかりと認識して、経営者としての責任を自覚し、自分で経営の策を考え、決断することが大事だと訴えたのです。
しかし、出席者の松下電器に対する不満は激しく、両者の意見は平行線をたどり、決着がいつ、つくのかも分からない状況が続きました。

会談が3日目を迎えたとき、突如として松下幸之助は、出席者に向かって深々と頭を下げ、その姿に静まり返った会場で、涙ながらに話したことが二つあったといいます。
一つは、中小企業の1社に過ぎなかった頃から、松下電器をひいきにしてくれた協力会社の皆さんからの、期待に応えられていない状況への悔しさ。そしてもう一つは、現状打破のために自分たち、メーカーが頑張るときだ、という並々ならぬ決意でした。

松下幸之助の頑張るという言葉に、嘘はありません。当時、当人は既に会長へと退いていましたが、その発言から3週間後には、自ら営業本部長代行となり、営業本部長の横に机を置いて、毎日出社。
“3つの大改革”として、「一地域一販社制」「事業部、販社間の直取引」「新月賦制度」を実現するため、自身が先頭に立って、全国各地のベンダーの説得に奔走したそうです。

中には、強く反発するところもあったようですが、そういった相手には、賛同してもらえるまで、ひざ詰めで改革の必要性を懇々と説き続けました。この改革が功を奏し、販売会社・代理店の経営は回復していくことになります。

松下幸之助のこのような姿こそ、経営者の責任の何たるか、を表しているのでしょう。

絶体絶命の危機を救う、日頃の積み重ねとは?

熱海会談において、松下幸之助が語った話題の中に、「経営が悪化したホンダは、従業員や業者に対して危機を早期に共有し、協力を得たことにより、よみがえった」というものがありました。
ここで語られている本田技研工業(ホンダ)の経営悪化とは、1954年頃の倒産危機のことを指しています。

ホンダは自転車用補助エンジン「カブF型」の完成と合わせて、自転車販売店で売ってもらう、という新たな販売網の構築に着手しました。それ以前、ホンダが販売を委託していた代理店は300店ほどしかなく、競合に大きく後れをとり、顧客に広く製品を届けられていなかったのです。

この差を一気に埋めるべく、全国に5万軒以上あった自転車販売店を、販売網に組み込もうと考えました。この狙いは的中し、1952年の売上は前年比約8倍へと伸び、新工場を建設。1954年1月には創業6年目にして、株式公開を果たしています。

ところが、上場から間もなく、カブの売れ行きは大幅に下落。他社が自転車の三角フレームの中に置くことができる新型エンジンを開発し、自転車販売店ルートで売り出したためでした。
これに追い打ちをかけるように、鳴り物入りで発売した「ドリーム号」は不具合などもあって売れず、その他のラインナップも人気は下降気味。まさに、製品全滅状態に陥ってしまったのです。

そこへ、最新鋭の設備をそろえるべく投資した4億5,000万円や、新工場の膨大な建設費の支払いが、重くのしかかってきました。さらに、経営状態に危機感を募らせた労働組合との折り合いまで悪化していってしまいます。

まさしく、絶体絶命の危機。ホンダの創業者・本田宗一郎は技術的な課題の解決に取り組み、彼の右腕として経営を担っていた藤沢武夫は、この難局を乗り越えるために思案をめぐらせました。
倒産を避けるには減産が不可欠ですが、それには部品メーカーを説得しなければなりません。賃上げもボーナスもないことを、社員に納得してもらう必要もあります。

そこで藤沢が選んだ道は、理屈をこねるのではなく、従業員や業者に対して、会社がどれほどの危機に直面しているのか、経営状況をつつみ隠さず伝えて、協力をお願いすることでした。

下請け業者からすれば、減産は死活問題です。容易に受け入れることはできません。その高い壁を超える力となったのが、藤沢が日頃から大切にしてきた“信頼関係”だったといいます。
「他人に迷惑をかけない」「相手の立場に立つ」といったことを大切にして、ステークホルダーとの間にパートナーシップを築いていたからこそ、「ホンダを将来に生かすため、今は痛みを分かち合ってほしい」という藤沢の願いを、受け入れてもらえたのです。

おわりに

松下幸之助もホンダ同様に、彼らが偉大な経営者となれた根っこの部分には、「誠実」であることと、努力を惜しまず、その積み重ねによって周囲との信頼関係を築いてきたことが、大きいのではないでしょうか。
このベースがあるからこそ、周りの協力をあおぐことができ、卓越した経営戦略、事業計画が成果に結び付いていくのです。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)

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