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名経営者の知恵に学ぶ~出光佐三編~

掲載日:2023年7月3日事業戦略

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出光興産の創業者である出光佐三。百田尚樹氏の小説『海賊とよばれた男』(講談社)の主人公のモデルになったといわれる佐三には「人間尊重」「大家族主義」「士魂商才」などの言葉で表される経営の信念があり、それらを貫き通しました。
本稿ではそんな佐三の人生から、現代のビジネス界を生きる私たちが学べることを探っていきましょう。

「イギリスに喧嘩を売った」と評されたことも

1885年8月22日、出光佐三は福岡県宗像郡赤間町(現・宗像市)で、藍問屋を営む父・藤六、母・千代の次男として生まれました。
福岡市商業学校(現・福岡市立福翔高等学校)を経て神戸高等商業学校(以下、神戸高商。現・神戸大学)に進学し、1909年に卒業します。

その後、石油や機械油、小麦粉などを取り扱う社員数名の酒井商店に就職しました。
1911年、学生時代に知遇を得た資産家・日田重太郎の支援を受け、25歳で石油類の販売に携わる「出光商会」を設立。
これが、出光興産の始まりです。

当初は機械用の潤滑油を販売していましたが、ほとんど成果が出なかったといいます。
そこで、佐三は灯油よりも安価な軽油に目を付け、創業3年目から漁船向け燃料油の販売を始めました。
それによって、順調に利益をあげていくわけです。
海上で船に直接給油できる方式だったため大変好評でしたが、競合他社からは自分たちの顧客を奪う「海賊」と呼ばれるようになります。

しかし、第2次世界大戦中、日本軍の石油政策に反対した佐三は海外へ追放されてしまうのです。
敗戦後、日本へ戻ってきた佐三に残ったものは、借金と約1,000名の社員でした。
それでも、家計が苦しいからと家族である社員を追い出すようなことはできないと、「馘首せず」の方針を貫き、農業、水産業、酢や醤油の販売、ラジオ修理など、様々な仕事をこなして苦境をしのぎます。

どれも今まで行ってきた事業とは、全く異なる分野の仕事でしたが、どれだけ経営が苦しくても、誰一人首にはせずに、社員を守ると宣言したことで、社員は一致団結して、全員でこの壁を乗り越えようと奮起したわけです。
これぞまさに「大家族主義」であり、社員の生活を担う大黒柱として、トップの覚悟と強いリーダーシップがうかがえるでしょう。

その中で、危険なため誰もやりたがらず、巡り巡って佐三のもとに舞い込んできたGHQからの依頼で、燃料タンクの底に残る油の回収作業という過酷な仕事をこなし、再び石油事業を手がけるきっかけとしました。

第2次世界大戦後の1953年、イランが石油の国有化を巡ってイギリスとの係争に発展し、イギリス艦隊がイランの海上を封鎖するという事態に至ります。
このとき、日本は自由に石油を輸入することができなくなり、経済発展の障害となっていました。

そこで佐三は、撃沈のリスクを冒して自社保有のタンカー「日章丸」を極秘にイランへ差し向け、封鎖網をかいくぐって日本へと石油を持ち帰ることに成功したのです。
これが日章丸事件で、「イギリスに喧嘩を売った」として国内でも大きく報道され、同時に佐三の行動力を示す逸話として有名になりました。

のちにイギリスと係争中だった石油メジャーのアングロ・イラニアン社はこのことに激怒し、佐三を訴えます。
その際、佐三は「出光の利益のために石油を輸入したのではなく、横暴な石油カルテルの支配に対抗し、消費者に安い石油を提供するために輸入した」のだと語り、堂々たる態度で世界中から世論の後押しを受け、訴訟は取り下げられました。

出光商会創業からちょうど70年目の1981年3月7日、佐三は永眠します。95歳でした。
佐三の死を悼んだ昭和天皇が「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思ふ」と詠んだことは、よく知られています。

事業理念の基礎を作った、2人の恩師

実は、現在の出光興産にも受け継がれている、佐三が掲げた事業理念の基礎は、自身が学生時代に出会った2人の恩師によって形作られたものでした。

1人は佐三が神戸高商に入学した当時の校長・水島銕也。
彼は学生一人ひとりへ温情的に接し、本当の家族のように面倒を見ていました。

佐三は水島から「人間は愛に育ち、そういう人間が社会の中心になる」、人を育てることの大切さや人が中心であることなどを教わったと、のちに語っており、これが佐三の掲げた「人間尊重」のルーツになっていきます。
現代における「人的資本主義」に通じる考え方といえるでしょう。

また、佐三は「士魂商才」ということも水島から教わりました。
士魂商才とは武士の魂を持って商才を発揮することで、武士道的経営ともいわれます。
商売は「儲けるため」ではなく、「世のため人のため」にやるものだということです。

この考え方には、もう1人の恩師である神戸高商の教授・内池廉吉も大きな影響を与えています。
彼は「商売は金儲けじゃない、消費者のため、生産者のためにやるんだ」「生産者と消費者の間で社会的責任を果たす配給者としての商人のみが残る」と教えました。

佐三の在学中、世の中には「金を儲ければいい」「金は万能だ」という拝金主義がはびこっていたのです。
人間尊重の考え方に共感を覚えていた佐三は、「金が中心じゃない、人間が中心だ」とこの風潮に反発、人物本位・人間中心の信念をより強く抱くようになります。

これは、「人に迷惑かけようが、社会に迷惑かけようが、金を儲けりゃいい。これは金の奴隷である」とのちに語り、自身や周囲を戒めていたことにも表れており、その最たる行動が日章丸事件だったのではないでしょうか。

実際、出光興産のウェブサイトには、「出光の5つの主義方針」として「人間尊重」「大家族主義」「独立自治」「黄金の奴隷たるなかれ」「生産者より消費者へ」と書かれています。

それらの中には「人間がつくった社会である。人間が中心であって、人間を尊重し自己を尊重するのは当然」「事業を目標とせよ。金を目標とするな」「先ず営業の主義を社会の利益に立脚せん」などの言葉が記載されており、水島や内池の教えが垣間見えるでしょう。

同社が発展してきた背景には、今日まで続く人間尊重・消費者本位の考えがあり、それは神戸高商時代に恩師から受けた薫陶によるものだったのです。

揺るがぬ信念と、貫き通す胆力

佐三の経営人生に、大きな影響を与えた人物がもう1人います。
資金がなく、独立したくてもできなかった佐三に手を差し伸べた、資産家の日田重太郎です。

学生時代、佐三は日田の自宅で息子の家庭教師をしていました。
そのとき、日田は佐三を大いに気に入り、佐三の独立に際して、京都の家を売却して得た6,000円(現在の価値では1億円に近いともいわれる)を「返済不要」として与えたのです。

日田は佐三に資金を渡すときに、3つのことを条件としました。
①社員を家族と思い仲良く仕事をすること、②自分の主義主張を最後まで貫くこと、③日田が金を出したことは他言無用、というものです。
そうして日田の援助を受けた佐三は、北九州で「出光商会」を設立します。

「出光の5つの主義方針」にある「大家族主義」について、「日本の家庭におけるような信頼と愛情の姿を、会社の中で実現したい」と佐三は語っていますが、そこには恩師・水島だけでなく、日田との約束もあったのです。

第2次世界大戦の敗戦後、多くの日本企業が大規模な人員整理を行い、失業者の増加が社会問題になっていました。
それでも佐三が「事業は飛び借金は残ったが、出光には海外に八百名の人材がいる。これが唯一の資本であり、これが今後の事業を作る。人間尊重の出光は終戦に慌てて馘首してはならぬ」と、人間尊重の理念を貫いた理由は、ここにあるわけです。

経営者として、ときに考え方を変えなければならない場面はあるでしょう。
しかし、周囲の状況にただ流されるだけではなく、自身の軸となる揺るがない信念を持っていることは、不確実で予測のできない現代において、重要な指針となります。
そして、それを貫き通す胆力こそ、トップに求められるリーダーシップなのかもしれません。

尊重と信頼からなる「出光の七不思議」

「馘首せず」の方針は、「出光の七不思議」として語られることがあります。
①馘首がない、②定年制がない、③労働組合がない、④出勤簿がない、⑤給料を発表しない、⑥給料は生活の保証であって労働の切り売りではない、⑦社員が残業代を受け取らない、の7つです。

これらは佐三の経営思想からできあがったもので、ここにも人間尊重・大家族主義の信念が表れています。
家族であるからこそ信頼や絆も生まれて、馘首や定年、出勤簿などは必要がないと考えたのです。

「入社した社員は子どもが生まれたという心持ちになって、これに愛の手を伸ばして育てる」と述べ、馘首を嫌う。
定年については、「人間が五十歳になれば役に立たないなんていうことは、人間をバカにした話」であるとし、「個人個人によって能力が違う」ものだから「年齢などに関係なく、その人の能力のいかんによって決すべき」であるとしています。

大家族主義を標榜する佐三は、会社の中で家庭における信頼や愛情を実現しようとしていました。
その中で、「愛情によって育った人間は非常に純情であるから、お互いが人を疑わず信頼の念が強い」とし、労働組合がなくても一致団結することができると考えたのです。

出勤簿が必要ないのは「人間を信頼していれば当然のこと」であり、「自尊心を持っている人」ならば出勤簿に対して「人間を侮辱するなと抗議ぐらい申し込むのが本当の姿」ではないかといい切っているほど。

これらを企業文化として浸透させたのは、徹底した社員教育と佐三が持つカリスマ性の賜物といえるでしょう。
こうした社風で育ってきた社員だからこそ、自らがやるべき仕事が残っていれば、それをこなすのは当然だと考え、残業代を受け取らないという風潮ができあがっていったのです。

出光興産では、時代に応じて形を変えながら、その考え方の多くが今でも生き続けているといいます。

これらは日本型経営とも評され、現在では実現が難しい内容もあるでしょう。
しかし、人が互いに尊重し合い、個々の能力を認め合うという考えは、多くの企業で実践できるのではないでしょうか。

おわりに

会社や事業が、どのように人や社会の役に立ち、人々の未来をどう作っていくのか。
それを考えなければ、ただの金儲けであり、事業として長続きせず、佐三が反発する「金が主であって人が従」の状態になってしまうのでしょう。

また、佐三に対して大金を提供した日田の意思や、それをきっかけに大成した佐三の生き様からは、信頼が持つ強さを伺えます。
人から信頼されることは、その人の力を引き出す原動力になる。
出光興産における理念の浸透からは、それを読み取ることができるのではないでしょうか。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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