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名経営者の知恵に学ぶ~安藤百福編~

掲載日:2023年2月1日事業戦略

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日清食品の創業者であり、「チキンラーメン」や「カップヌードル」の開発で、世界の食生活に変革をもたらした安藤百福。2018年に放送されたNHKの朝の連続テレビ小説「まんぷく」では、妻・仁子とともにそのモデルにもなっています。
しかし、百福の人生は苦難の連続で、大成功への道のりを歩み始めたのは40代後半からでした。

独自の着想や蓄積した経験から事業を拡大し、ロングセラーとなるヒット商品を生み出した百福は、多くの格言を残しています。本稿では、不屈の精神で決して歩みを止めずに行動した百福の人生から、ビジネスのヒントを探っていきましょう。

「遅咲き」ではなく「必要な」年月だった

安藤百福は1910年(明治43)、日本統治下の台湾で生まれました。
幼くして両親を亡くし、繊維織物の問屋業を営む祖父母に育てられます。
家業を手伝いながら商売のイロハを学んだ百福は、22歳のときに台湾で繊維会社「東洋莫大小(メリヤス)」を創業。
翌年には日本・大阪に進出し、メリヤス問屋「日東商会」を設立します。

日東商会は、日本と台湾間のメリヤス貿易で急成長しましたが、第2次世界大戦の勃発により、メリヤスの流通は日本軍の管理下に置かれてしまい、事業は頓挫します。
しかし、百福は戦争で炭の需要が高まると予想、兵庫県で25町歩(約0.25平方キロメートル)の山を購入して炭焼き事業を開始しました。
また、空襲で住居を失った人のためにバラック住宅(仮設の住居)の製造・販売も始めた他、軍用機関連部品の製造等、様々な事業を展開していきました。

戦後、百福は屋台のラーメンに長い行列を作る人々の姿を見て「1杯のラーメンのために人はあんなにも努力をするものなのか」と、“食”の大切さを痛感、これがラーメンに関心を抱くきっかけになりました。
「人間はすべて食べることから始まる。食が足りなければ文化も芸術もない」と考えた百福は、1948年(昭和23)に「中交総社」を設立(のち「サンシー殖産」と改称)、製塩等、食品関連事業を始めます。
47歳のとき、簡単ですぐに食べられ、保存性もあるラーメンの開発に着手し、1958年(昭和33)に発売したのが「チキンラーメン」です。
このとき会社の商号を「サンシー殖産」から「日清食品」に改めました。百福48歳のときです。

世間からは“遅咲き”といわれたようですが「人生に遅すぎることはない。この発明にたどりつくために、私には48年の歳月が必要だった」と、のちに百福は語っています。

61歳のときに発明した「カップヌードル」は、「チキンラーメン」とともに、今も世界中で愛され続けるヒット商品となりました。
その30年後には、「宇宙食を作りたい」という強い意向のもと、自ら陣頭指揮を執って、宇宙食ラーメン「スペース・ラム」を開発します。
この「スペース・ラム」は、宇宙飛行士の野口聡一氏によって、実際に宇宙で食されました。

日本と世界、そして宇宙の食を変えた百福は2007年(平成19)、永眠。96歳でした。
晩年、百福が宇宙食の開発に心血を注いでいたことから、社葬は「宇宙葬」をコンセプトに掲げ、壮大なスケールで執り行われました。

不屈の精神から生まれた「チキンラーメン」

百福の実業家としての人生は、決して順風満帆なものではありませんでした。
20代で繊維関連からスタートし、順調に事業を拡大してきた百福ですが、二度の大きな挫折を味わっています。

一度目は脱税容疑をかけられたときです。
終戦直後の1948年、製塩事業を行っていた百福は、突然GHQに拘束されます。
当時、百福は前途に希望を失っていた若者を集め、慈善事業のつもりで月5,000円の給付金を与えていましたが、これが勤労所得にあたるとされてしまったのです。
源泉徴収して支払うべき税金が納められていない、脱税容疑でした。
百福は巣鴨拘置所に2年間も収監され、その間に一切の財産が没収されます。
出獄後は無一文になってしまっていました。

二度目は、理事長を務める信用組合の破綻です。
1951年(昭和26)、百福は大阪に新設された信用組合「大阪華銀」の理事長に就任しました。
最初は順調でしたが、この信用組合は貸し付けがルーズで、多くの不良債権を抱えてしまいます。
起死回生を狙った百福は先物取引に手を出しますが、これに失敗。
1957年(昭和32)に大阪華銀は破綻し、百福は背任罪に問われ、執行猶予付きの有罪判決に服することになります。
再び百福は全財産を失いました。

全財産を二度も奪われた百福。47歳で味わった人生のどん底でした。
妻子を抱え、残ったのは一軒の借家のみ。
人生の折り返し地点の年齢で、半生を懸けて積み上げてきた物を失い、普通ならばここからの再起は難しいでしょう。

しかし百福はポジティブでした。「失ったものは財産だけ。経験が血や肉となって身に付いた」と、自身を奮起させます。
そして、かつてラーメンの屋台に並ぶ行列を見て実感した「食」の大切さを思い出し、「何か人の役に立つことはできないか」という気持ちを新たにします。
そして、ここからラーメンの開発をスタートさせるのです。

のちの大ヒット商品「チキンラーメン」は、この「食」に対する思い、そして事業を通して、人の役に立つのだという不屈の精神から生まれたといえるでしょう。

強い執念で成功をめざし、需要を見極める

百福はのちにこう語っています。
「長い行列もぼんやり見ればただの人の列である。だがこの行列には庶民の選択、需要が暗示されていた」
終戦直後に見た、ラーメンの屋台に長蛇の列を作る人々の姿。
「チキンラーメン」の原点はここにありました。
百福は見落としてしまいがちなありふれた光景の中に、隠れたニーズを見出したのです。

麺作りは素人だった百福ですが、自宅の裏庭に研究小屋を建て、研究に打ち込みます。

ラーメンの開発にあたって、百福は5つの目標を設定しました。

  1. おいしいこと
  2. 保存性があること
  3. 便利であること
  4. 安価であること
  5. 安全であること

これら5つは、今でも日清食品の開発部門における基本マニュアルになっています。
百福は「明確な目標を定めた後は執念だ。ひらめきもまた執念から生まれる」と語っており、1日わずか4時間の睡眠時間でラーメン開発に没頭しました。

試行錯誤を繰り返す研究の中で、百福はいくつかの壁にぶつかります。
中でも長期保存が可能な乾燥法と、お湯を注いで食べるための仕掛けは大きな課題でした。
しかし、それも意外なところに突破口がありました。
ある日、妻・仁子が台所で天ぷらを揚げている様子を何気なく見ていた百福は、高温の油から泡を出しながら揚がっていく天ぷらを見て「これだ!」とひらめきます。
油で揚げて乾燥させた麺には微小な穴が無数にでき、多孔質を形成します。
そこにお湯を注ぐと穴から水分が吸収され、乾燥した麺は短時間で元の柔らかい状態に戻るのでした。

この発見も、執念の賜物でしょう。明確な目標とその達成に対する執念があったからこそ、何気ない光景に隠されたヒントも見逃さなかったのです。

「チキンラーメン」の国際商品化のため、1966年(昭和41)、百福は欧米視察に出ます。
そこで「西洋人はドンブリと箸で食事をしない」という食習慣の違いに気付かされた百福は、海外進出を前に新たな課題に直面します。
しかし、現地で訪れたスーパーで、担当者が「チキンラーメン」を小さく割って紙コップに入れてお湯を注ぎ、フォークで食べる様子を見てひらめきます。
ここから次のヒット商品「カップヌードル」が生まれていくのです。

ドンブリに代わる容器、箸に代わるフォークの開発に着手し、5年間の試行錯誤の末、1971年(昭和46)に「カップヌードル」の発売に至りました。百福、61歳でした。
のちに、カップヌードルは日清食品にとって、チキンラーメン以来のヒット商品となり、日本、そして世界の食生活に革新をもたらすことになりました。

没後、インスタントラーメン発明記念館(現・安藤百福発明記念館 大阪池田)の正面広場に建てられた百福の銅像には、功績を称える碑文が記されています。
中曽根康弘元首相によるその碑文では、「チキンラーメン」と「カップヌードル」を「世界食」と評しています。
「食」を通じて「人の役に立つこと」をめざした百福の思いは、今でも、世界中の人々の食生活を支え続けているのです。

おわりに

新しい商品やサービスを開発する際のチャンスやヒントは、どこに転がっているか分かりません。
百福は「常に時代の変化をキャッチできるよう、興味の焦点を合わせて、スイッチを入れておく。こうすると、同じ物を見ても心の窓が開いているから、他の人には見えない物まで見えてくる」と語っています。
ここでいう「スイッチを入れておく」とは、ニーズを見極めるため、常に観察眼を磨いておくということ、「心の窓が開いている」とは、世界に向けてオープンな姿勢でいるということでしょう。

百福のように目標を明確にし、それに対する執念を持つことで、わずかなヒントや変化も見逃さずにビジネスに活かすことができるのです。

48歳まで挫折と失敗を繰り返した百福ですが、それは成功のために必要な時間でした。
「失敗も含めて、過去の体験の積み重ねが、常識を超えた力を発揮させてくれた」とも語り、すべての経験は自身の「血と肉」として大切にしていました。

いくつもの困難に直面しながら、常に目標達成に対する強い執念を持ち続けていたからこそ、百福は世間の隠れたニーズやひらめきにたどり着くことができたのでしょう。

その不屈の精神は我々に、新しい挑戦に年齢は関係ないということも教えてくれるのです。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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