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悩みが消える!“歴史・偉人”の言葉~北条政子の巻~

掲載日:2022年12月1日事業戦略

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鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子。
2022年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場し、幕府や北条氏が直面する幾多の危機を、弟・北条義時とともに乗り越えていく姿が描かれています。
鎌倉幕府の実権を握り「尼将軍」と称され、ときには「悪女」とも評された政子には、家臣である御家人たちを統率するリーダーシップとカリスマ性があったといわれます。

政子はどうやって家臣をまとめ、幕府の基盤を安定させていったのか。本稿ではその実像に迫ってみましょう。

幕府体制を盤石ならしめた「尼将軍」

北条政子は1157年(保元2)の生まれだと推定されています。
父は伊豆の豪族・北条時政。時政は平治の乱後に伊豆に配流の身となっていた源頼朝の監視役でした。
やがて政子は頼朝と恋仲となり、1177年(治承元)頃ふたりは結婚します。

1180年(治承4)、頼朝が平氏打倒のために挙兵、同時期に政子も鎌倉に移り住みました。
頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、鎌倉幕府を開くと、政子は「御台所」と呼ばれるようになり、頼朝を支えて鎌倉幕府の基盤作りに貢献します。

1199年(建久10)に頼朝が亡くなった後、長男の頼家が2代将軍となり、政子は出家。
しかし頼家はまだ若く人望もなかったため、重臣ら13人による合議制が敷かれます。
政子も頼家の後見役として政務に関わり「尼御台所」と呼ばれるようになりました。

3代将軍の実朝の死により、源氏の嫡流が途絶えてしまった幕府は、左大臣・九条道家の子で、頼朝の妹の曾孫にあたる三寅(のちの藤原頼経)を4代将軍に迎えます。
しかし三寅はまだ2歳。このときも政子が後見役として実質的に幕府を動かしていきました。
政子が「尼将軍」と呼ばれるようになったゆえんです。

1221年(承久3)、後鳥羽上皇は幕府の執権で政子の弟・義時を追討する宣旨を諸国に発しました。
世にいう承久の乱です。
宣旨に従うべきか否か、関東の御家人(将軍と主従関係を結んだ武士)たちに動揺が広がります。

そしてこのとき、政子は御家人たちを集めて演説を行いました。
演説に心を掴まれた御家人たちは結束を固め、宣旨に従わずに上皇の軍勢と戦ってこれを撃破、幕府の危機を乗り越えます。

その後、政子は執権の義時と、義時の死後に執権職を継いだ泰時をそれぞれ支え、鎌倉幕府の政治体制を盤石なものにしていきました。

御家人を結束させ、危機を回避した「演説」

政子の優れた御家人統率力を物語るエピソードとして、たびたびあげられる承久の乱での「演説」。
演説といっても、このときは本人が聴衆の前でスピーチをしたのではなく、政子の側近・安達景盛が政子の言葉を伝えたとされています。

承久の乱について、もう少し詳しく見ていきましょう。
発端は、1221年(承久3)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に奪われた実権を取り戻すべく、執権・北条義時追討の宣旨を発した出来事でした。
宣旨とは朝廷が発する文書の一つで、天皇の命令を伝えるもので、もし背けば、「朝敵(朝廷の敵)」の汚名を着せられてしまいます。

諸国の武士たち、とくに関東の御家人たちは大いに動揺しました。
宣旨に従って義時と戦うか?それとも背いて義時に味方するか?
もし御家人たちが宣旨に従って義時を討っていたら、その後の鎌倉幕府や北条氏がどうなっていたか分かりません。

やがて多くの御家人たちが政子の邸に集まりました。
朝廷を相手に戦うことになるかもしれないという不安を抱き、態度を決めかねている者も少なくありません。

そのとき、御家人たちの前で、政子の言葉として次のような演説が披露されたのです。

『皆、心を一つにしてお聞きなさい。これは私の最後の言葉です。頼朝さまが朝敵(木曽義仲や平氏)を滅ぼし関東に武士の政権を作って以降、皆は官位を得て収入も増えました。頼朝さまの御恩は山よりも高く海よりも深いのです。その御恩に報いようという心は浅くないことでしょう。しかし今、その御恩を忘れて天皇や上皇をだます者が現れ、朝廷から理不尽な幕府討伐命令が下されました。名こそ惜しむ(名誉や名声を大切にする)者は、朝廷側についた藤原秀康・三浦胤義らを早々に討ち取り、三代将軍の御恩に報いてください。もしこの中に朝廷側に付こうという者がいるのなら、まずはこの私を殺してから京都へ行きなさい』(鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の記載を現代語に意訳)

政子の言葉に感動した御家人たちは涙を流し、上皇軍と戦うことで結束したのでした。
そして、20万ともいわれる幕府軍が京都に押し寄せ、幕府軍が勝利しました。
政子の演説で、鎌倉幕府と北条氏は危機を乗り切ることができたのです。

政子の演説で注目すべきことは「上皇vs義時」ではなく「京都vs鎌倉」という構図を前面に出し、「戦う相手は上皇ではなく、上皇をたぶらかす者たちだ」という点を強調したことです。
これにより、御家人たちは戦うための大義名分を得たといえるでしょう。
朝敵になることを恐れる者、北条氏に反感を抱く者も少なくなかったため、「義時のために上皇と戦え」と命令しても、御家人たちが結束することはなかったはずです。
また頼朝が平氏を倒したことで、それまで不遇であった関東の武士たちが解放されたという一面もあり、その御恩に気付かせた点も大きかったといえます。
道義をもって理不尽に抗うことを強調したのです。

御家人たちが政子の言葉で動かされた背景には、政子の持つカリスマ性もあったでしょう。
単に頼朝の妻だったというだけでなく、苦労をともにし、武家政権樹立に貢献したという実績があってのことです。
多くの御家人がそのことを知っていたからこそ、彼らは政子に付いていこうと決めたのでした。

冷静かつ公平に対処する危機管理能力

政子が、御家人たちから信頼されていたことを想像させるエピソードがあります。

2代将軍・頼家はかなりの好色で依怙贔屓等も多く、御家人たちの信頼を失っていました。
あるとき御家人の一人、安達景盛の妻を頼家が奪おうとした事件が起こります。
事件で景盛が自分を恨んでいると知った頼家は、景盛を誅殺しようと、景盛やその父・盛長が住む邸に軍勢を差し向けました。

このとき、政子は自ら安達の邸に乗り込み、頼家を諫めます。
このような軽挙妄動は再び乱世のもととなること、景盛は頼朝が信頼を寄せていた家臣であること等を説き、「どうしても景盛を討つというならば、まず私を矢で射なさい」と言いました。

また政子は、景盛に謀反の気持ちがないという起請文(神仏への宣誓書)を書かせています。
政子はこの起請文を頼家に渡し、本件を「粗忽の至り」と叱責したのでした。
これを受け、さすがに頼家も引き下がるしかありませんでした。

このとき、もし政子が我が子だからと一方的に頼家の肩を持つことがあれば、御家人たちの間に不信感と怨嗟が生まれ、幕府の基盤が揺らいでいたかもしれません。
公平な態度で事態を収拾することで、それを防いだのです。
今にも戦が始まろうというところに単身で乗り込み、論理的に諭しつつ情に訴えるという、政子の行動力と危機管理能力の高さが伺い知れます。

また、父・時政が再婚相手である牧の方と謀り、3代将軍の実朝を暗殺して娘婿の平賀朝雅を将軍の座に擁立しようとした際にも、弟・義時とともにこれを阻止、時政を伊豆に追放しました。

身内でも容赦はしないという姿勢は御家人たちを規律面で引き締める効果があったはずです。
また「政子ならば強いリーダーシップで公平なジャッジをしてくれる」という信頼感が、御家人たちの間に生まれることにもなったでしょう。

リーダーに求められる資質とは?

組織のトップに立つ人間には、リーダーシップを発揮しなくてはならない場面があります。

大きな決断を迫られたとき、部下を適切に導くことができるのか、そして彼らは自分についてきてくれるだろうか、という不安を抱くこともあるでしょう。

しかし、土壇場でできることは限られているのです。

政子が、演説で御家人の心を動かすことができたのは、内容の巧みさもさることながら、それまで幕府の基盤作りに貢献し、御家人たちと強い信頼関係を築いていたからこそ。
そして、組織のために、変わりゆく情勢を冷静かつ公平な目線で観察していたからこそ、彼らに届く演説を述べることができたのでしょう。
大事な場面に直面した段階で、既に勝負は決しているのです。

強いリーダーシップを持つためには、常日頃から部下、そして組織全体を冷静に観察し、強い信頼を得るべく尽力することが大切です。
そのような下地があれば、大事な局面で自らの信念を示したとき、おのずと部下は賛同してくれるでしょう。

このような教訓を、北条政子のエピソードから見ることができるのではないでしょうか。

おわりに

御家人たちを結束させた演説では、不安を取り除き、納得と共感が得られるような言葉が用いられています。
政子は他者の立場や気持ちを察し、どう説得すればよいかを判断できる人だったのでしょう。
その一方で政子は「悪女」と評されることもあります。
嫉妬深く、恐妻ぶりを発揮し、身内でも容赦はしないという冷徹さを揶揄されたものでしょう。
その背景には、夫と築きあげてきた幕府を守るという強い意志を感じます。

部下を動かすため、組織を守るという確固たる信念と、他者の立場で考え、公平無私な態度で事態に対応する姿勢が、リーダーには欠かせません。
また何かを成し遂げる場合、ときには「悪」にもなる必要があるということを、政子の姿に見て取ることができるのではないでしょうか。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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