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組織運営に生かす、鎌倉幕府の成功と失敗

掲載日:2022年6月1日事業戦略

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大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で再注目されている鎌倉幕府ですが、歴史上、初の武家政権ということもあり、幕府設立からしばらくの間は、安定した組織運営とは程遠い状況が続きました。なぜ、そのような不安定な状況に陥ってしまったのか、そして、そこからどのようにして盤石な体制を築いたのか。
本稿では、鎌倉幕府の歴史を振り返りながら、経営の参考になるヒントを探っていきます。

乱立する権力では、導くことはできない

平家を滅ぼし、奥州藤原氏も打ち破ったものの、源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた1192年から、わずか7年後の1199年に急死してしまいます。
その後を継いだ2代目将軍の頼家が、18歳と若かったこともあり、彼を補佐するという名目で13人の有力御家人による合議制を導入しました。

ところが、リーダーシップのあるトップがいないまま、合議制に移行したためでしょうか。「船頭多くして船山に登る」というように、合議制は思ったようには機能せず、北条派と反北条派に分かれた権力闘争へと発展していくことになってしまったのです。

若い頼家に、組織を導いていく力が足りていなかったということ。
そんな状況下において、利害が対立しているだけでなく、同程度の発言力を持つ有力者をリーダーの位置に複数置くことの、愚を証明する好事例といえるでしょう。

現代の企業においても、急遽、事業承継をせざるを得なくなったという後継者が経営に難儀するのも、同様の理由によるかもしれません。自分よりも社歴の長いベテラン社員の意見に左右されてしまったり、思うような改革を行えなかったりすることもあるでしょう。

しかし、鎌倉幕府における合議制を起点とした権力闘争は、北条氏が実権を握ることで一応の決着を見ます。
乱立していた権力構造が、一つにまとまったのです。
このとき指揮を執ったのは、日本の歴史上で初めて、権力の中枢で組織を統率した女性リーダーといわれている、頼朝の正妻である北条政子です。

当時、男社会である武家のトップに女性が就くことは、なかなか想像できなかったのではないでしょうか。
なぜ、北条政子は権力を握ることができたのか、瓦解してしまいそうな組織をどのようにしてまとめあげたのか、もう少し掘り下げてみましょう。

鎌倉幕府が組織内部で身内争いをしていた間に、頼家はその権力闘争に敗れて出家したものの暗殺され、3代目将軍となった実朝も、甥の公暁に暗殺されてしまいました。

この混乱に乗じて、鎌倉幕府の力を削ごうと後鳥羽上皇が兵をあげ、2代目執権となっていた北条義時を討ち取るために、全国の武士や豪族たちに、義時追討の院宣を送りました。これが“承久の乱”です。

まさに、鎌倉幕府としては「次から次へと難題が立ちふさがる」という状況。
この難局を乗り越える原動力の一つとなったのが、政子でした。

周囲を巻き込み、動かすリーダーシップ

実朝の死後、政子は鎌倉殿を代行するようになります。
鎌倉殿とは、鎌倉幕府の棟梁を指した言葉です。つまり、代行とはいえ、武家政権である源氏のトップに、女性の政子が就いたといえます。

それも、単なる神輿として担がれたわけではありません。
後鳥羽上皇の挙兵に対し、戦うことをためらう御家人の気持ちを奮い立たせたのが、他ならぬ政子だったからです。

この頃の幕府と御家人との主従関係は、あまり強固なものとはいえませんでした。
大河ドラマでも描かれていますが、御家人の多くは坂東武者であり、彼らは自分の領地を守ることが大切で、そのためであれば、幕府の意向に逆らうことも珍しくなかったようです。

このような御家人の気持ちを、政子は「御恩と奉公」を訴えることで変えてしまいます。
頼朝は戦に勝った際、御家人たちに領地を与えてきました。当時、武士は3年間、京都の御所や院などの警備にあたる「大番役」という任務が義務付けられていたのですが、その任期を半年に縮めたのも頼朝です。

このような「御恩」に触れ、「頼朝様のおかげで、あなたたち武士の地位は上がり、領地も増えた。その御恩は山よりも高く、海よりも深いものです。その御恩に応える機会が今なのです」と立ちあがることを訴えたのでした。
つまり、領地を与えられた御恩に対して、戦の際、鎌倉を守るために駆けつけるのが「奉公」だと演説したのです。

頼朝の正妻であり、2代目、3代目将軍の母である政子は、もともと御家人からカリスマ視されていたこともありますが、周りを巻き込み、鼓舞するリーダーシップがなければ成し得ないことです。
事実、彼女の言葉で気持ちを一つにした御家人たちは、後鳥羽上皇を打ち破ることに成功しました。

そんな政子にも、自分に不利益をもたらす人物に厳しくあたるなどの側面はあったようです。
北条氏のライバルである比企氏と強く結びつき、独裁を行おうとした頼家を出家させたのは政子だともいわれていますし、京都方への肩入れが目に余るようになった父・時政を隠居へ追い込んだのも彼女だといわれています。

ただ、こういった側面も含めて、周りを惹きつけるだけの人間味のある女性であり、周囲を巻き込んで行動を起こしていくパワーを持った人物だったのかもしれません。それこそが、彼女のリーダーシップだったのでしょう。
比叡山のトップである天台座主も、政子と後鳥羽上皇の女房を二人並べて、「日本国は女性が一番の大事を決める」と記したといいます。

さて、ここまでご紹介してきたエピソードには、現代における経営にも通じる、ヒントが隠されているのではないでしょうか。

組織が一つの方向を向き、一致団結すれば、非常に大きな力を持つことができるということ。
そのためには、トップが強いリーダーシップを持って、直接、メンバーに自らの言葉で訴えかけることが重要なのです。
バラバラだった鎌倉幕府の御家人たちも、政子の強い言葉によって、心を動かされ、その考えを改めました。

そして、そのリーダーシップを発揮する力があれば、当時男社会に身を置く女性であっても、上に立って組織を導き、素晴らしい結果を残すことができたのです。
現代に置き換えて考えれば、経営者としてだけではなく、部署の長として、チームリーダーとして、プロジェクトの責任者として、様々な形が考えられます。
人を巻き込み、動かしていく実力を持った人が引っ張っていくことで、大きな成果をあげられるかもしれません。

トップの力から、組織としての力へ

鎌倉幕府初期の混乱は、政子という傑物の人間力によって乗り越えることができました。
しかし、3代執権・北条泰時の代になると、幕府という組織としての統制が利くようになります。

その土台となったのが、「御成敗式目」でした。
これは、源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会における慣習・道徳を基に制定された法令です。

実は、御成敗式目が制定されるまで、貴族社会における法令や土地・荘園に関する決まりごとはあったものの、武家社会を対象とした法令はありませんでした。
そのため、各地でもめ事や争いごとが絶えず、この状況を改善するために制定されたのが、御成敗式目たったのです。

これによって武家社会は安定へと向かい、鎌倉幕府の権威も高まっていくことになります。
現代企業で例えるなら、社内規則や制度といったところでしょうか。

優れたリーダーシップを持った経営者やリーダーがいても、その人たちがいなくなって、組織が路頭に迷うようでは、意味がありません。
特に経営者であれば、自身が退任した後も安定した会社運営がなされるよう、在職中に社内規則や制度、ルールなどを整え、会社の文化を醸成していくことも、重要な役目なのでしょう。

それこそが、強い組織を作りあげ、長期的な成長へとつながっていくのです。

おわりに

今回は、鎌倉幕府の歴史を紐解くことで、経営にも通じる考え方をご紹介しました。
日本の歴史を作ってきた、先人たちの取り組みには、もちろん、成功も失敗もあります。そのすべてから、現代社会でも使える知恵を得ることができるでしょう。

そして、今、必要とされていることは、歴史上で既に実践されていることもあります。その結果を見返せば、これから、どのように会社の舵を取っていくか、大きなヒントになるかもしれません。ぜひ、参考にしてみてください。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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