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悩みが消える!“歴史・偉人“の言葉~上杉鷹山の巻~

掲載日:2023年12月1日事業戦略

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アメリカの元大統領であるジョン・F・ケネディが、「最も尊敬する日本の政治家」としてその名を挙げたという上杉鷹山(うえすぎ ようざん)。小藩の子から名門・上杉家の養子となり、17歳という若さで米沢藩主となります。財政破綻寸前だった米沢藩で、家臣からの猛反発を受けながらも強い意志と信念で改革を断行し、藩を窮状から救いました。
その改革手法やメンタリティーからは、組織を導くリーダーとして学ぶべき点が多々あります。本稿では、彼の名言から、ビジネスパーソンに必要とされる手法と発想を読み取ります。

藩主自らが、率先垂範して家臣を導く

上杉鷹山は1751年、日向国(現・宮崎県)に存在した高鍋藩主・秋月種美の次男として生まれました。幼名は松三郎。
実は、『忠臣蔵』でおなじみの吉良上野介の息子、5代米沢藩主・上杉綱憲の娘が、鷹山の祖母にあたる瑞耀院です。
その縁もあって鷹山は1760年、8代米沢藩主・上杉重定の養子となって名を直丸と改めます。
その後、1767年に鷹山は17歳で9代米沢藩主となり、治憲と名乗りました。

鷹山が藩主に就いた頃、米沢藩は莫大な借金を抱え、深刻な財政難に陥っていました。
財政再建のために、鷹山は家臣たちと衝突しながらも藩政改革を実施、自ら率先して質素倹約の生活を実践します。
一方で、産業振興策も推し進めました。今日でも人気のある米沢織をはじめ、和紙やロウソクなど新たな特産品を生み出し、領内の荒れた農地の開墾を行ったのです。

鷹山は35歳の若さで家督を養子の治広に譲りますが、その後も相談役として藩政に関わり、さらに改革を進めていきます。1822年に72歳で世を去る頃には、それまでの努力が実り、死の翌年に米沢藩は借金の完済に至りました。

上杉家は高名な戦国武将・上杉謙信に連なる名門です。
謙信の時代は200万石ほどの所領を有していた上杉家ですが、豊臣秀吉の治世には会津に国替えとなって120万石に、関ヶ原の戦いで西軍に与して敗北したため、30万石で出羽国(現・山形県と秋田県の一部)の米沢に移されました。

さらに4代藩主・綱勝の急死と世継断絶によって、15万石にまで削減されます。
そこから江戸への参勤交代や、江戸城改修工事などの「手伝い普請」がさらに藩財政を圧迫していき、凶作などもあって年貢収入も激減。領民の中には農地を捨てて逃げる者も相次ぎ、田畑は荒れ果て、さらなる悪循環に陥ります。
藩士の俸禄の半分をカットする「半知借上」も行われ、家臣たちも窮乏していきました。8代藩主・重定は家臣や領民を救うために幕府への領地の返上も考えていたほどです。

そのような状況下で藩主となった鷹山は、藩の財政再建のために大倹約を断行します。
まず自身の生活費である仕切料を1,500両から209両にまで削減。食事は一汁一菜とし、普段着は木綿のものを着用、50人いた奥女中を9人にまで減らしました。参勤交代の行列も華美で盛大なものはやめ、質素なものに縮小します。
家臣たちにも同様の質素倹約を求めましたが、まずは自身が率先してそれを実践する姿を見せたのです。

「してみせて、言って聞かせて、させてみる」

これは、鷹山が残したと言われる言葉ですが、リーダー自らが実践して部下に手本を見せる大切さを説いています。
家臣に質素な暮らしをさせておきながら、藩主自身が贅沢をしていては、家臣の心は離れ、財政再建などできるはずがありません。また、目的や趣旨を説明して理解させ、納得させたうえで実践させることの大切さを鷹山は理解していました。

「なぜそうしなければならないのか」「何のためにやるのか」を理解していれば、指示しなくとも部下は自律的に行動できるようになるのです。
経営者たる者、常に従業員の模範となるよう率先して物事に取り組む。その姿勢を見ることで、組織を構成するメンバーは“経営者目線“で動くことをめざす……この言葉はそのようなことを教えているとも言えます。

「為せば成る」の精神で、反発・抵抗を抑えて借金を完済

米沢藩窮乏の原因の1つに、家臣数の多さがありました。どんなに領地が減っても家臣の削減は行わず、藩を開いて以降、5,000~6,000人の家臣数を維持し続けていたのです。
つまり、藩の財政が苦しくなってもリストラはしない方針が続いていました。記録によると、家臣たちに支払う給与総額は13万石ほどになっていたといいます。米沢藩は15万石なので、収入の約90%が人件費で消えていたのです。

他方、上杉家には名門としてのプライドもありました。その威厳を保つため、衣食住に限らず、年中行事なども従来のしきたりを守り続け、それが藩の財政を圧迫し続けていました。
鷹山はこういった部分にも、臆せずに切り込んでいったのです。

現代の企業でも、リストラやベースダウン、福利厚生の縮小は従業員の反発を生みます。
当然鷹山も家臣たちからの激しい反発と抵抗に遭いました。改革の中止だけでなく、藩主引退要求まで出される事態に発展します。
およそ4時間にも及ぶ、守旧派家臣たちとの談判もありましたが、鷹山は一歩も引きませんでした。

それには「この藩を必ず立て直してみせる」という強い信念があったからなのです。そのことが分かる、鷹山の歌があります。

「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」

強い意志と信念を持って事にあたれば成就する、成就しないのは必ず成し遂げようという意志がないからだという意味です。
米沢藩は鷹山の死の翌年、11代藩主・斉定のときに途方もなく膨大な借金を完済しました。
鷹山に強い意志と信念がなければ、達成できなかったでしょう。もし鷹山に少しでも迷いがあれば、家臣たちの反発に負けていたかもしれません。

藩が破産すれば家臣たちは路頭に迷います。
それを意地でも回避して藩と家臣を救うという固い決意、何があっても達成するまでは諦めないという強い心が鷹山にはあったのです。

組織の中で前例のないことをやろうとすると、必ず反発が生まれるでしょう。
しかし前例がなく猛反発があったとしても、そこに明確な目的と合理性があることを鷹山自身が理解していました。そして達成できれば必ず藩は持ち直すという自信と確信もあったのです。

目的の合理性と達成へのプロセスが明確であることは、リーダーに大きな自信を与え、それが強い意志と信念になります。鷹山の「為せば成る」の精神は、そのことを私たちに教えてくれているのです。

困難なときにこそ、試されるリーダーの“信頼力“

アメリカの第35代大統領、ジョン・F・ケネディは「日本の政治家で最も尊敬するのは誰か?」と記者に問われたとき、鷹山の名を挙げたといいます。それは鷹山が、アメリカ合衆国建国とほぼ同時期に、民主主義の原点を唱えていたからだとも言われています。

鷹山は17歳で米沢藩主に就いた際、次のような歌を詠みました。

「うけつぎて 国の司の 身となれば 忘れまじきは 民の父母」

領民を我が子のように慈しんで政治を行う、という決意の表れです。

また、鷹山は家督を治広に譲ったときに、君主の心得を残しました。「伝国の辞」と言われるものです。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして、我、私すべきものにはこれなく候
一、人民は、国家に属したる人民にして、我、私すべきものにはこれなく候
一、国家、人民のために樹てたる君にして、君のために樹てたる国家、人民にはこれなく候

国家は先祖から子孫に伝え残すべきものであり、現世の時代の人が私有すべきものではない。
人民は国家に属しているのであり、君主が私有するものではない。
君主は人民があっての君主であって、君主のために人民があるのではない。
こうした内容を語ったのです。

ここでいう「国家」とは藩のことを、「人民」は家臣や藩の領民、「君」とは藩主を意味します。
これは藩の公共性を説いており、現代で言う主権在民の思想と重なるものです。

おわりに

現代においても、企業が危機に直面したときこそ、トップの姿勢が問われます。経営者が自身のことばかり考えて行動していては、社員たちはついてきません。
自社さえ良ければいいという姿勢でいると、顧客や協力会社、そして社会全体からの信用を失ってしまいます。

リーダー自らが率先垂範すること、目的やその合理性、プロセスを理解したうえで行動させることの大切さを、私たちは鷹山から学ぶことができます。
そして、すべてのステークホルダーを「家族」のように慈しみ、その人たちにとって何がベストなのかを考え、「為せば成る」の精神で臨むことがリーダーには欠かせないのでしょう。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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