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名経営者の知恵に学ぶ~塚本幸一編~

掲載日:2023年11月1日事業戦略

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今や、大手衣料品メーカーとなったワコールは、塚本幸一が創業した、第二次世界大戦後の京都を代表するベンチャー企業でした。根っからの近江商人である同氏は、戦後の日本で洋装が広まることをいち早く察知し、女性用下着で天下を取ったのです。
本稿では、創業当初から「50年計画」を立て、女性活躍企業を作りあげた塚本氏の今なお受け継がれる精神と、時代に先んじたパーパス経営を紐解いていきます。

逆境に負けない父の背中を見て、商人をめざす

ワコールの創業者である塚本幸一は1920年に、近江商人の中でも名門として、仙台で綿織物や麻織物を扱って財を築いた「塚本商店」の塚本一族に生を享けました。
両親ともに近江出身で、父の粂次郎は商才に恵まれた人だったそうです。一方で同氏は、ビジネスにおいて一か八かという選択を好む傾向があったともいわれています。

そのせいか、粂次郎は先物相場に手を出して大きな損失を出してしまい、塚本商店から追い出されることになりました。
幸一は近江八幡に預けられ、粂次郎は単身名古屋に移り、文房具や呉服などの商売で再起を図ったそうです。
もとより商才があった粂次郎は、瞬く間にビジネスを拡大していき、呉服の仕入れ先がある京都で「嘉納屋商店」を設立します。そこに幸一たち家族も呼び寄せて、再び、ともに生活ができる環境を作りあげました。

そんな逆境でも立ちあがり、再起をかけて挑戦する父の背中を見ていた幸一は、商人になることを幼い頃から決意していたようです。のちにワコールが経営危機を幾度となく乗り越えたのも、こうした父の姿を見ていたからでしょう。
幸一は商業学校の名門といわれる八幡商業学校に通い、学びを深めていきました。

一方で、時代は第二次世界大戦に突入します。その波は非情にも、幸一のもとにも押し寄せたのです。
八幡商業学校を卒業して、嘉納屋商店で呉服に携わる商人としてのキャリアをスタートさせた矢先のことでした。
軍隊に召集され、中国戦線へと飛ばされてしまいます。そこで、太平洋戦争の中でもとりわけ悲惨だったといわれるインパール作戦に参加し、5年半にも及ぶ戦争の過酷さをかろうじて生き残り、日本に戻ってきました。

そのとき同氏は、多くの犠牲のうえに自身が生かされていると実感し、その命を戦後日本の復興にかけることが自分の役割だと考えます。これこそが、ビジネスパーソンとして成功を収める原動力になっていたのかもしれません。
帰還した幸一は、1946年に個人商店として本格的に商売を始めました。それが、ワコールの前身となる「和江商事」です。

掲げた理念に込めた、近江商人らしい思い

創業直後、幸一は自宅玄関先に、「和江商事設立趣意書」を貼り出します。その内容は、以下のものでした。

「終戦以来道義地に落ち、人情紙の如く、復員者の益々白眼視されつつある現在、揚子江の滔々として絶ゆる事なく、悠々天地に和す。彼の江畔に契りを結びたる戦友相集り、明朗にして真に明るい日本の再建の一助たらんと、茲に、婦人洋装装身具卸商を設立す」

ここには、同氏の近江商人たるメッセージが2つ込められていると考えられます。

1つは、戦地で散っていった仲間たちへの思い。
ミャンマーのチンドウィン川を渡り、インパール作戦に従事した幸一は、そこでともに“和”を契り合った戦友たちの分まで、「明朗にして真に明るい日本の再建」を実現させようと標榜したのでしょう。

もう1つは、幸一が抱いた「女性が美しくしていられる社会こそ平和な社会」という創業の志です。
「道義地に落ち、人情紙の如く」というのは、日本に帰還した同氏が目のあたりにした、敗戦国の姿でした。

派手な化粧の女性は米兵に媚びを売り、人々は闇市へと出かけていく様子。そして、激しい戦火を生き抜いて帰ってきた自分たちに対する厳しい風あたり。そのすべてに、怒りを覚えていたのです。
特に幸一にとっては、気高いはずの日本女性が戦争を経て変わってしまったことが、衝撃だったのかもしれません。
そこで、そうした復員兵たちとともに、以前の日本を取り戻すべく、女性をターゲットにした婦人洋装装身具で事業を興します。

まさに「三方よし」の近江商人らしい考え方であり、こうした自らの思想を社内外へと宣言することを、幸一は生涯続けました。
トップが強い意志を掲げて社員に浸透させ、会社が一丸となってその目標を達成しようとすることで、ワコールは戦後の日本で飛躍的な成長を遂げたのです。これぞ現代における「パーパス経営」といえます。

実際、幸一がワコールの目標として掲げた「世の女性に美しくなって貰う事によって広く社会に寄与する事こそわが社の理想であり目標であります」という言葉は、今でも同社の社員一人ひとりに受け継がれているそうです。
ワコールが2022年に策定した「ひとりひとりが自分らしく美しくいられるように世の中が自信と思いやりにあふれるように からだにこころにいちばん近いところで寄り添い続けます」というミッションにも、色濃く反映されています。

10年を一区切りに、50年という長期計画を立てる

創業当初、女性用アクセサリーの販売から事業をスタートした和江商事は、飛び込み販売で成果をあげていきます。
しかし幸一は、ビジネスをより持続的に、大きくしていくことを常に考えていました。

そんな中、日本の女性たちが和装から洋装へと変わっていく時代の流れを敏感に察知し、1949年に婦人洋装下着の製造・販売を開始したのです。個人事業だった和江商事を、和江商事株式会社として法人化したのも、このときでした。
この新しい事業が奏功し、徐々に欧米風のおしゃれに対する関心が高まっていった女性たちから、絶大な支持を得るようになっていきます。

このように目先のビジネスだけでなく、長期的に事業を発展させていこうと考えていた幸一は、日本だけではなく、世界で戦える企業を目指していました。
和江商事の立ちあげから10年ほど経った1956年、同氏は初の海外視察でアメリカへ渡ります。
そこから帰ってきて策定したのが、「十年一節五十年計画」でした。

これは10年を一区切りとして、50年を見据えた極めて長期の経営計画です。
そこには、10年ごとに大きな飛躍をしていって、50年単位での持続的な成長をしていくという同氏の思いが込められています。
そして1957年、社名をワコール株式会社に変更し、「世界のワコール」をめざしてさらなる発展へと舵を切りました。

「十年一節五十年計画」の中身は、1950年代から1990年代の50年間を定めたものです。
まず1950年代の10年間で、国内市場を開拓していく。これに関しては、この時点で既に京都から東京へと進出しており、ある程度の成果があがっていたと考えられます。

1960年代には、国内市場におけるワコールのブランド地位を確立すること。
そのうえで1970年代には海外市場へと進出し、1980年代には海外でも国内と同じようにシェアをとって、1990年代には夢である「世界のワコール」を実現するというものでした。

実際にワコールは、1970年代にアジア3ヵ国で合弁会社を設立し、海外進出を果たしています。
その後、アメリカや中国、ヨーロッパへと進出していき、この「十年一節五十年計画」に沿った成長を遂げてきたといえるでしょう。

こうした長期計画を立てることは、VUCAと呼ばれる予測困難な現代において難しいと考える経営者も少なくありません。
しかし、変動性が高く不確実な社会だからこそ、会社としてめざす指針が必要なのです。

幸一は創業時に「日本の復興」を、そしてかなり早い段階から「世界進出」という大きな目標を自身の中に持っていました。
当初から持続的な成長を描いていた同氏だからこそ、長期的な戦略を常に考え、戦後の混乱期に立ちあげたベンチャー企業をここまで大きくできたのでしょう。

「十年一節五十年計画」は、そんな思いをただ言葉にしただけかもしれません。
ただ、事業が拡大し、会社が大きくなっていく中で、そうした戦略を自分の中に留めているだけでなく、社員に周知することでより結束した力で目標を達成しようとした、これも「パーパス経営」の一環だったといえます。

おわりに

近江商人の「三方よし」は、サステナブルな社会を実現するという文脈で、広く用いられるようになってきました。
たしかに、幸一が抱いた思いや掲げた理念からは、その一端を見ることができます。それは近江商人である父の背中を見て、商人を志した同氏だからこそ、意識せずとも染み出してきた考えだったのでしょう。

しかし、ワコールの成長を支えたのは、そうした意志を高らかに宣言し、実現した幸一の胆力でもあります。
そして、それを言語化して、会社としての目標や経営計画に据えることで、より強い求心力へとつながっていったのです。

創業者の志やトップの思いを社内に広く浸透させることは、昨今、非常に重要視されています。他方、それを難しいと悩む経営者も少なくありません。
幸一のように、社会や国を見据えた壮大な目標は、多くの人から共感を呼びやすいかもしれません。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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