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悩みが消える!“歴史・偉人”の言葉~福澤諭吉の巻~

掲載日:2023年5月1日事業戦略

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一万円札の肖像としてもおなじみの福澤諭吉。
慶應義塾を創立、『学問のすゝめ』『文明諭之概略』等多くの著作を残し、教育者・啓蒙家・ジャーナリスト等、いくつもの顔を持っていた人物です。

福澤は多くの著作の中で「学ぶこと」「一人ひとりが独立の気概を持つこと」の大切さを説いていました。
これに代表されるように、幕末から明治という激動の時代を生きた福澤の生きざまや言葉は、現代人にとっても示唆に富んでいます。

価値が多様化し、情報が氾濫する現代。
そんな時代を生きる私たちにとってのヒントになるようなエッセンスを、福澤の人生から探っていきましょう。

“西洋文明”の精神を日本に伝えた第一人者

福澤諭吉は1835(天保5)年、豊前国中津藩(大分県)の下級武士・福澤百助の次男として、大坂の中津藩蔵屋敷で生まれました。
福澤が1歳6ヵ月のときに父が他界、母や兄姉とともに中津に引き揚げます。
1854(安政元)年、19歳で蘭学修行のために長崎へ、翌年には大坂で緒方洪庵の適塾に入門しました。

そして1858(安政5)年、藩命により江戸の中津藩中屋敷で蘭学塾を開きます。
これがのちの慶應義塾の始まりです。

1859(安政6)年の横浜見物の際に、福澤は後述するようにオランダ語が役に立たないことを実感し、英語への転向を決意します。
1860(万延元)年に咸臨丸で渡米し、1862(文久2)年には幕府使節の随員としてヨーロッパ諸国を歴訪しました。

これらの海外体験を基に、福澤は『西洋事情』を出版します。
その後も『学問のすゝめ』『文明論之概略』等を続々と著し、当時の日本人に西洋文明の精神を伝えました。
余談ですが、戊辰戦争の最中にあった1868(慶應4)年5月15日、上野の寛永寺に立てこもった彰義隊と官軍の間で戦闘が行われたとき、砲声が鳴り響く中でも動ずることなく、いつものように講義をしていたことは良く知られたエピソードです。

明治以降は東京府会議員や東京学士会院(現・日本学士院)初代会長等を務め、交詢社の結成や新聞『時事新報』の創刊に携わった他、北里柴三郎を支援して伝染病研究所の開設にも尽力しました。

そして1901(明治34)年、脳溢血症のために世を去ります。66歳でした。

蘭学から英学へ。24歳からの学び直し

福澤が記した著作の中でもとりわけ有名な『学問のすゝめ』は、1872(明治5)年に初編が刊行されました。

著作等を通じて学ぶことの大切さを伝え続けた福澤自身の学びは、14~15歳ごろに始めた漢学がスタートで、早いうちからめきめきと上達したといいます。
蘭学を志したのは福澤が19歳のときです。それまではアルファベットすら見たことがなかった福澤ですが、「人間の読むものならば横文字でも何でも読んでやろう」と、長崎でオランダ語を学び始めたそうです。
こちらの習得も早く、一緒に学んでいた中津藩家老の息子・奥平壱岐を嫉妬させるまでになります。
大坂の適塾では生理学、医学、物理学、化学等をオランダ語の原書で読んで種々の実験も試みました。
自然科学の知識も習得していったのです。

また、福澤はオランダ語の力に自信を深めていき、江戸に出たころには少し「天狗」になっていたようです。
江戸にいる蘭学者を訪ね、教えてもらうふりをして原書の難しい箇所についてわざと質問し、その力量を確かめていたといいます。
しかし、その鼻っ柱をへし折られるときがきます。
24歳ごろ、福澤は開国でにぎわう横浜に出かけますが、そこでそれまで必死に学んだオランダ語が全く通用しないことに気付かされました。
鎖国時代とは違い、日本が開国して欧米諸国との交易が始まって以降は、英語の方が重要になっていたのです。

大きな挫折でしたが、そこから福澤はめげることなく、必死に英語を学び始めます。
教えてくれる人もなく、英和辞書もありません。
蘭英辞書を頼りに独学で習得し、江戸幕府の外国方(いまの外務省)に採用され、海外派遣使節団のメンバーに加えられるまでになります。

24歳といえば、今では大学を卒業したての年齢ですが、現代よりも平均寿命がはるかに短い時代です。
それまで自分が必死で積み上げてきたものが役に立たないと分かったときの挫折感は相当なものでしょう。
しかし、福澤はあきらめることなく英語をゼロから学び始めます。
その切り替えの早さもさることながら、年齢を顧みずに挑戦を始める姿勢は、学び直しに遅すぎるということはないということを教えてくれているようです。

学ぶことで、情報の正否を「見極める力」を養う

インターネットの発達やSNSの勃興もあり、現代社会には情報が氾濫しています。
伝達のスピードは早く、テレビ等の報道よりも先にSNSでニュースを知ることも珍しくないでしょう。
中にはフェイクニュースといわれるものも混在し、目まぐるしく情報が行き来する中で、その正否が見極めにくい世の中になっています。

福澤は『学問のすゝめ』で「世事転遷の大勢を察すれば、天下の人心この勢いに乗ぜられて、信ずるものは信に過ぎ、疑うものは疑いに過ぎ、信疑ともにその止まるところの適度を失するものある」と指摘しています。
世の中の流れに飲まれて、何もかも鵜呑みにしてしまう人がいれば、逆に何でも疑ってしまう人もいて、そのバランスが失われているというのです。
信疑のバランスを失うと、真実をも見失ってしまう恐れがあると、福澤はその危険性を指摘したのでした。

これは現代でもよくあることです。
福澤はこうもいっています。「よく東西の事物を比較し、信ずべきを信じ、疑うべきを疑い、取るべきを取り、捨つべきを捨て、信疑取捨そのよろしきを得んとするはまた難きにあらずや」。
様々な情報に接して、それらをよく比較・分析することで真実が見える、必要な情報か否かの判断もできるようになる、ということです。
そのためにも「幾多の書を読み、幾多の事物に接し、虚心平気、活眼を開き、もって真実のあるところを求めなば、信疑たちまちところを異にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあらん」ともいっています。
多くの書籍を読み、多くの人の意見を聞き、落ち着いて本質を見極めようとする「学び」の姿勢が大切だと説いたのでした。

新しい情報に接するとき、予備知識や事前情報の有無はその解釈に大きく関わります。
「これは自分が聞いていたことと違うようだ」「こんなことが本当に起こりえるのか」と、受け取った情報を自身で精査できるよう、「学び」によって様々な知識を得ておくべきだという知恵を、福澤の言葉から授かることができるでしょう。

自律的に考え、行動できる人材の育成が大切

福澤は『学問のすゝめ』で、「独立の気力なき者は必ず人に依頼す、人に依頼する者は必ず人を恐る、人を恐るる者は必ず人に諛(へつら)う」といっています。
自分で判断して解決しようとせず、何でも他人任せの人は、頼れる人がいなければ困るので、相手の顔色ばかりうかがうようになるというのです。

企業等の組織でも、仕事の意義を理解せず、疑問を抱かずに意思表示もせず、上司の指示や会議の決定事項にただ従うだけの人が少なからずいるでしょう。
当然、判断力や問題解決力、マネジメント能力が養われず、ビジネスパーソンとしての成長は見込めません。

福澤が記した著作の多くには「一身独立して一国独立」という言葉が現れます。
個々の国民が独立することで、はじめて、その国の独立を保つことができるという意味です。

『学問のすゝめ』では「独立の気力なき者は国を思うこと深切ならず」ともいっています。
福澤が生きた時代は欧米列強のアジア進出が盛んなときで、福澤のこの考えは、「日本が欧米勢力に支配されるかもしれない」という時代背景から生じた危機感を反映しているという面があります。

しかし、福澤のいう「国」を「組織」に置き換えてみても、その意味が理解できるでしょう。
自分が属する組織の動向や将来を思い、自分の人生と重ねることができる人はモチベーションも高く、より大きな成果を求めて活動します。
逆にそれがない人は意見も言わず、極端な場合はリスクや損失を予見できても指摘すらしないということになりかねません。
組織の理念やビジョンを理解して自律的に行動し、闊達に発言できる人材の育成は、現在多くの組織で求められています。
福澤は当時から、そんな人間を育てる必要性を説いていたのです。

おわりに

福澤が生きた幕末から明治は海外から大量の新しい知識や情報が流入し、価値観が大きく変化、多くの日本人が圧倒されていた時代です。
これは情報が氾濫する現代に似ているものがあります。

福澤は漢学、蘭学、英学、そして海外の自然科学や価値観についても貪欲に学んでいました。
そのため、明治以降の知識や情報の大量流入、価値観の激変にも対応できたのでしょう。
先の読めない激動の時代という点では、当時も現代も同じです。
デジタル技術の急激な進化、多様化を続ける価値観に対して、学ぶことをやめずに「何をすべきか」を考えて自律的に行動することが、時代を乗りこなすためのカギなのかもしれません。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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