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名経営者の知恵に学ぶ~山内溥編~

掲載日:2023年3月1日事業戦略

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花札やトランプ、かるた等を製造していた任天堂を、世界的な電子ゲーム機メーカーに昇華させた山内溥。
同社を急成長させた中興の祖であり、その経営哲学は「娯楽屋であること」「独創的であること」に一貫していました。
「運」を重視し、過信を嫌う姿勢は、今でも任天堂の社風として受け継がれています。
一方で、山内は企業理念を作ったり、戦略を練ったりすることがなかったといいます。
本稿では任天堂を急成長させ、世界有数の企業に育てあげた山内の哲学を紐解いてみましょう。

22歳の若さで家業の「任天堂」を継ぐ

1927年、山内溥は花札やトランプ等の製造・販売を手掛けていた任天堂の創業者・山内房治郎の曾孫として京都で生まれました。

山内が5歳のときに父・鹿之丞が行方不明になり、山内は祖父母に育てられます。
1949年、祖父・積良が病に倒れたのを機に、合名会社山内任天堂の販売会社・丸福かるた販売株式会社の社長に就任。山内22歳のときでした。
1951年に任天堂骨牌株式会社を設立。1953年、日本初のプラスチック製トランプの開発・量産に成功します。
さらにディズニートランプの発売で子ども向け市場に進出しました。

1963年、社名を現在の任天堂株式会社に変更し、室内玩具の他「光線銃SP」等のエレクトロニクス玩具、「コンピューターオセロゲーム」等の業務用ビデオゲームの開発を通じて、コンピューターゲームの生産技術を充実させていきます。
1980年に携帯型液晶ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売。そして山内の「『ゲーム&ウオッチ』の次はテレビゲームだ」という指示から開発が始まった「ファミリーコンピュータ」を1983年に発売します。
その後も「ゲームボーイ」「スーパーファミコン」等のヒット商品を世に送り出し続けました。

2005年に山内は任天堂の役員を辞して相談役に就任します。
このとき、退職慰労金を「社業に使ってほしい」と辞退。そして2013年、肺炎のために85歳で世を去りました。

良いときこそ奢らずに善後策を模索しておく

花札やトランプのメーカーに過ぎなかった任天堂を、世界的なゲーム機メーカーに押しあげた山内。
しかしその成長の過程は順調ではなく、多くの苦難がありました。

1959年、山内はウォルト・ディズニー社と交渉し、ミッキーマウス等のキャラクターの使用権取得に成功、ディズニーの人気キャラクターたちを絵柄にした「ディズニートランプ」を発売します。

このトランプにはプレイングガイドという遊び方のルールを記したミニブックが同梱されていました。
トランプという「既存製品」にプレイングガイドという「付加価値」を付けたことは多くのユーザーの心を掴み、爆発的なヒット商品になります。
それまで博打の道具としてしか認識されていなかったトランプを、子どもやファミリー向け玩具として再定義したことで、新たな市場の開拓に成功したのでした。

「ディズニートランプ」がブームを巻き起こしたことにより、任天堂は1960年代前半、一躍業界トップに躍り出ます。
しかし、数年後には「ディズニートランプ」のブームも落ち着き、陰りが見え始めます。「ヒットは、はかない物だとつくづく感じた。ヒットしている内に善後策を考えておかないと手痛い目に遭う」と山内は痛感します。

また同じ時期に山内は「我々の商売は本来なくても良い物。目が覚めたら市場が消えているかもしれない」と将来に不安を感じ、多角経営に舵を切るようになりました。
タクシー事業やインスタントライスの開発、実用商品市場に参入しますが、いずれもノウハウ不足等が原因となり、任天堂の柱としての事業にはなりえませんでした。
1961年に始めた食品事業からは4年後に撤退し、1960年より手掛けていたタクシー事業からも9年後、手を引くことになります。
「ディズニートランプ」の流行が過ぎ去った時期には、一転して倒産の危機といえるまで会社の業績が落ち込んでしまったのです。
「現実に何かしなければ会社がなくなってしまう。そういう危機感が非常に強かった」と山内がのちに話している通り、不安や焦りからの失敗だったのでしょう。

山内が座右の銘としていた中に「失意泰然 得意冷然」という言葉があります。
うまくいっていないときは、慌てたり落ち込んだりせずに泰然として努力し、逆にうまくいっているときもそれに溺れて有頂天にならず、むしろ冷然と事にあたるという意味です。
山内の父・鹿之丞が好んだ言葉だったともいわれますが、ディズニートランプや経営多角化で山内自身が経験した失敗にも通じる物があります。

「運」を重んじ、過信や奢りを戒める社風

山内はメディアの取材を受けることも多く、「任天堂の成功の秘訣は何か」と聞かれることもありました。
しかし山内は「結果としてこうなっただけ」であると常に話しています。
明確な経営戦略や計画、ビジョン等は持たず、ただ会社存続のために何をすべきか、模索しながら経営を続けてきたのでした。

そして「運が良かった」ということも強調しています。
運の存在を強く意識していた山内は、例え良い結果が得られても「自分は運が良かったのだ」と思うように努めていたのです。
「『自分の経営が良かったからだ』とか『自分に力があったからだ』等と思ってはいけない」「運を実力と錯覚するということは、これほど愚かなことはない」等とも言っています。
これらは奢りや過信につながり、山内はそれを極端に嫌っていたのでした。

成功はあくまでも結果だという山内の謙虚な姿勢にもそれが表れています。

ディズニートランプの事例から、娯楽は飽きられやすく、何がヒットするかも予測しがたいということを山内は学んでいました。
また多角経営の失敗に加え、過去に倒産の危機を迎えていたことも、自身をこのような考えに至らしめたのでしょう。

この「運」を重んじる考えは今でも任天堂で徹底されており、どんなにヒットを飛ばしても奢ることなく、謙虚な姿勢を保とうとする社風として息づいています。

山内は社名の由来を「運を天に任せる」と定義しています。
これは最初から運任せにするという意味ではありません。
やるべきことを全力でやったうえで、後は運を天に任せるという意味なのです。

娯楽品は生活必需品とは違うことを明確に

花札にトランプ、かるた、そしてゲーム機と、任天堂は娯楽ビジネスの道を歩んできました。
山内も任天堂を「娯楽屋」と位置付けています。
そして、山内は度々「娯楽は他社と同じが一番だめだ」と言っていました。
「娯楽に徹せよ、独創的であれ」というマインドを社員にも植え付け続けたといいます。

類似品や二番煎じを嫌っていた山内。商品の新規企画が出されたときには「それはよその商品とどう違うのか」と必ず問い返していました。
過去にディズニートランプで業績を向上させた任天堂でしたが、やがて頭打ちとなったことから、「子どもたちはゲームにすぐに飽きてしまう」という厳しい現実を知っていたのです。

また、山内は生活必需品と娯楽品を明確に区別していました。
「生活必需品ならば他社の真似でも良いが、娯楽品ではそうはいかない」ということを社員たちにも繰り返し伝えたのです。
生活必需品であれば、利便性や価格等の追求で生き残ることができますが、娯楽品は飽きられてしまえば終わりだということを重々理解していたのでした。
だからこそ、娯楽品には驚きや喜びがなければならない、「売れるか売れないか」の前に人々が遊んで「面白い!」と思える独創的な物を作らなければならないと考えていたのです。

おわりに

任天堂には、明文化された社是・社訓、企業理念といった言葉がありません。
山内自身がそのような物を好まなかったのですが、明文化された物に縛られて行動することと、独創的であることは相容れないという考えがあるからでしょう。

新規商品やサービスを開発する際、既に市場にある物を参考に考えることもあります。
しかし娯楽ビジネスではそれが通用しないということを山内は分かっていたのです。
娯楽ビジネスに必要なことは何かを理解し、その重要性を組織に説き、自身でも思案し続けました。

そうして努力を重ねたうえで、最終的な成功と失敗は「運」であると割り切る。 このような「人事を尽くして天命を待つ」姿勢こそが、今の任天堂を作りあげたのではないでしょうか。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※記事内の情報は、本記事執筆時点の情報に基づく内容となります。
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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