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名経営者の知恵に学ぶ~井深大編~

掲載日:2022年9月1日事業戦略

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盛田昭夫とともに、SONY創業者の一人として知られ、天才技術者とも称される井深 大。
本稿では、数多くの大ヒット商品を世に送り出し、同社を世界的企業に育てあげた彼のエピソードから、「売れる」物作りの精神を紐解きます。

「多くの人に喜ばれる商品」への転換点

昨今、新たな商品やサービスを開発しようと考えた際、多くの企業は、まず市場や消費者のニーズを念頭に据えるでしょう。
そしてリサーチやマーケティングを入念に行い、消費者にどのような価値を提供すべきかを模索し、開発する商品・サービスに反映します。
このように企業はあたり前のように、消費者視点での試行錯誤を繰り返しているのではないでしょうか。

そうしなければ、世の中に溢れかえる物や情報の海に埋もれてしまい、選んでもらうことが難しいという厳しい現実があるからかもしれません。

ただ、気を付けるべきと分かっていても、ときに企業は「自社が作れる最高の製品」をめざすばかりに、消費者を置き去りにしてしまうことがあります。
それは、「良い物だから間違いなく売れるはずだ」という、企業側の理論に偏ってしまった結果です。

特に、自社の開発力に自信があったり、高い技術力を誇っていたりする企業ほど、消費者視点を忘れて自分たちの考える「良い物」に執着してしまうケースがあるでしょう。

しかし、類まれなる技術力を持っていながら、消費者視点を持ち続けることの重要性に、戦後間もないタイミングで気付き、「世の中の役に立つ」「人々が喜ぶ物を作る」という信条を掲げ、商品を開発し続けた人物がいます。

SONYの創業者である井深 大です。

井深が早稲田大学在学中に発明した「走るネオン」が、後にパリ万国博覧会で金賞を受賞する等、彼は若き研究者として、早くからその才能の片鱗を示していました。

終戦後すぐ、井深は疎開先の長野から、「情報が集まる」東京へ出て、東京通信研究所を設立します。
1946年には東京通信工業と名を変え、株式会社化しました。これが、SONYの原点です。

そして、ある大きなきっかけにより、同社の名前は世の中に知れ渡るようになりました。
そのきっかけとは、テープレコーダーの開発、販売です。

井深は、NHKでたまたま目にしたアメリカ製のテープレコーダーを試聴した際、「我々の作る物はこれしかない」とすっかり惚れ込みました。
しかし、テープレコーダーを作るための設計図は手元にありません。そこで、記憶や文献を頼りに、開発を進めることになります。

なかなか結果が出ず、重い空気が社内に立ち込めたときには、現物を借り出し、技術者に見せることで開発意欲をかき立てたそうです。

試行錯誤の末、およそ3年という期間を経て、1950年に日本初のテープレコーダー「G型」の開発に成功します。
持てる技術を結集して作りあげた最高の製品を、本格的に売り出したものの、まったく上手くいきませんでした。
井深と盛田も、出来あがった商品を背中に担いで全国を回りましたが、なかなか買い手は現れません。

原因の一つに、16万円という高価格があったといわれています。
大卒初任給が4,000円ほどだった当時、井深たちが完成させたテープレコーダーは、あまりにも高価過ぎたのです。

このような結果になってしまったのは、あらかじめ使う目的や需要を深く考えて開発した物ではなく、「我々の持てる技術を活かして作れる物は何か」という観点で開発に邁進してしまったからでしょう。
そして、「少々値段が高かろうが、こんなに便利な物が売れないはずはない」と思い込んでしまったのです。

それは、井深が開発に対して非常に強い熱意を持ち、深い知見を有していたからこそ、行き着いてしまった失敗だったのかもしれません。

自らの失敗を痛感した井深は、小学校の理科実験費用で使うことを想定した、教育界向けの小型テープレコーダー開発にシフトします。
価格も5万円ほどへ下げ、使い方を自身で講演して回ることで、知名度の獲得に成功しました。

この経験によって、井深は発想を大きく転換することになります。
消費者が手を伸ばせる値段であることが必要であり、それも含めて、「どんな物を作れば消費者に喜ばれるかをもっと勉強しなければならない」と。

以降、井深は「人々が喜ぶ物、買える物作り」を徹底することになるのです。

消費者が抱く“夢”への挑戦

井深の信念は、日本初となるトランジスタラジオ開発のエピソードにも垣間見ることができます。

トランジスタとは、電子回路において信号を増幅したり、スイッチングしたりすることができる部品です。
従来の真空管を使ったラジオと比べ、トランジスタラジオは消費電力を大幅に削減することができるため、小型化して持ち運べるようになりました。

井深とトランジスタとの出合いは、1952年に海外視察としてアメリカを訪れたときのことです。
テープレコーダーに続く目標を模索していた井深は、在米の友人から、トランジスタの特許を保有しているウエスタンエレクトリック(WH)社が、トランジスタの特許を公開してもいいと考えている、という話を耳にします。

井深はこの話に興味を持ち、トランジスタをテーマにすることを決めたのです。

ただ、WH社が授けた「補聴器に使えば儲かる」という助言には異を唱えます。
「広く誰もが買ってくれる大衆商品でなければ意味がない」という思考のもと、井深はラジオに着目。
真空管に代わる素子としてトランジスタを使う、トランジスタラジオの開発をめざすことにしたのです。

そのことを聞いたWH社の人間は「ラジオだけはやめておけ」と忠告したといいます。
当時、ラジオに向いている高周波トランジスタの実用化にはかなりの時間がかかるといわれており、加えて歩留まりの悪さという大きな課題もあったからです。

しかし、井深は考えを変えようとはしませんでした。
当時、個人がラジオを持てるというのは、多くの人が抱く夢であり、そこに挑戦したいと考えたからです。

とはいえ、WH社の予想通り、開発は困難を極めました。
必要資金ばかりが、どんどんかさんでいき、会社の資本金が5,000万円になったばかりのタイミングだというのに、約1億円をトランジスタラジオの開発に注ぎ込むことになったといいます。

そして、ようやく国産初のトランジスタ開発に成功したのが1954年です。
翌年、満を持して日本初のトランジスタラジオ「TR–55」を発売します。自社製造のトランジスタを使ったラジオとしては、世界初でもある製品でした。

その後も、アメリカで大ブームを巻き起こした5インチポータブル白黒テレビや、SONYの代名詞ともいえる「ウォークマン」、世界初のCDプレイヤー等、井深は開発部門のトップとして、新しい商品を世に送り出し続けました。
これらの商品は世界中の消費者に長い間、愛されることになります。

「売れる」物作りをめざしたとしても、実際に商品として形にし、流通させることは容易ではありません。
なぜ、そのようなことを続けることができたのでしょうか。
井深は問いに答えるがごとく、著書『わが友本田宗一郎』の中で、友人である本田宗一郎と自らの共通点として「ふたりとも、厳密にいえば技術の専門家ではなく、ある意味で“素人”だった」からだと語っています。

「技術者というのは、一般的にいえば、ある専門の技術を持っていて、その技術を活かして仕事をしている人ということになるでしょう。しかし、私も本田さんも、この技術があるから、それを活かして何かしようなどということは、まずしませんでした。最初にあるのは、こういうものをこしらえたい、という目的、目標なのです。(中略)本田さんも私も、目的を達成しようという執念が非常に強い。目的のためには、どんなに無茶苦茶に見える手法であろうと、取り入れられるものはなんでも取り入れるのです。その意味で、技術的には専門家でも玄人でもなく、まったくの“素人”なのです。しかし、“素人”がこうして、ひとつひとつ苦労して自分自身の手でつくりあげていくからこそ、人真似ではないものができるし、人が真似できないものがつくれるのです」
井深 大著『わが友 本田宗一郎』(ごま書房新社、2010年)より抜粋

商品の開発にはまず目的、目標が先立つ。それは、「人々が喜ぶ物、買える物」である、ということなのかもしれません。
そして、例えそれが大きく映ろうとも、実現のためにあらゆる手段を模索する。
自らを“素人”と表す貪欲で勤勉な精神が、多くの人に愛される商品開発の根底にあったのです。

おわりに

井深は、「多くの人たちに利用されてこそ、技術である」という言葉を残しています。
たとえプロの目から見て「良い物」を作ったとしても、一般の消費者にその魅力が伝わらなければ、ヒットには至りません。
価格が高ければ、手に取ってもらうことすら難しいでしょう。

多くの人に喜ばれる物作りという強い信念のもと、開発実現のために使える技術は何でも使うし、なければ自分で生み出してしまう——この井深のこだわりが、数々のイノベーションを起こしてきたSONYの原動力につながっているのです。
この考え方は、物や情報が溢れ、他社との差別化が難しい現代にこそ、注目されるべき心得なのではないでしょうか。

(記事提供元:株式会社プレジデント社 企画編集部)
※上記の個別の表現については、必ずしもみずほ銀行の見解を示すものではありません。

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